28th
志の輔師匠の着物姿はなかなか珍しい、というか滅多にないことである。
というのも、落語家が多いなか、テレビに出るときは着物を着ない、というスタイルを貫いている人なのでなおさらである。
志の輔師匠がテレビであまる着物を着ない理由はふたつある。
ひとつは、「落語家」としてテレビに出ているわけではないこと。 つまり、司会者であったりトーク番組であったりするにしても、そこはバックボーンとして落語家を背負ってはいても、テレビ上では「一タレント」というスタンスであるからだ。
これは、「タレント気取り」ということでは決してない。
というのは、これはふたつ目の理由なのだが、 「落語家=着物」という世間の常識とも闘っている人であり、また着物を着るときは落語をやるときだけだという決意もある。 「落語家を、せめて落語をつまらないと思わないでくれ。なめないでくれ」 が師匠のスタンスであり、 いわゆる笑点に出ている落語家とは一線を画す意味でも、師匠が着物を着ることには、必ずなんらかの意味がある。
よほどのことであることの証しだ。
このクライマックスシーンの流れで藤子先生は二つのトピックをあえて外して描いている。
「のび太VSジャイアンの喧嘩」と「ドラえもんが去る瞬間」だ。
↑のび太がジャイアンにぶら下がっているコマの前はドラえもんがのび太を探しているシーンで、その前はのび太が「このままじゃドラえもんが安心して未来へ帰れないんだ!」と叫ぶシーン。つまり、のび太がボコボコにされる喧嘩のシーンはとばされて、描かれていない。
同様にドラえもんが去る、机の引き出しを開けてタイムマシーンに乗り込む瞬間、つまり最後の別れの瞬間も描かれていない。
どちらも盛り上がり必至の画が描けるはずなのに。
ドラマや映画だったら間違いなく音楽をかけてガンガン煽るところだろう。
だが↑の「かったよ ぼく」の、のび太の表情がもう充分VSジャイアンとの喧嘩の壮絶を表現できているし、僕ら読者も想像できるのだ。
↑の肩を組んで歩いてゆく2ショットのドラえもんの涙でもうそれ以上はいらないのだ。
あえてその二つのシーンを描かなかったことでこのエピソードはとても上品なものとなり、のび太とドラえもんの関係をより際立たせている。
「汗水垂らして稼ぐ」ことに価値を見出すのは、「汗水垂らして稼ぐ」ことが生産的な活動に繋がってきたから。もちろんそうでないものもあるのだろうから、生産的な活動をすることを「汗水垂らして稼ぐ」と言い換えていると言った方がいいかもしれない。そういう活動を尊いものであるとした価値判断。そういう意味で、利ざやを稼いだり(金融業)、右から左へ動かすだけで手間賃を稼いだり(商社)ってのは生産的な活動ではないから評価されないってこと。
(via ontheroad) (via wideangle)